(No.19)佐野常民に学ぶ博愛の心と近代日本の夜明けについて – 日本赤十字社 兵庫県支部

事務局長だより

(No.19)佐野常民に学ぶ博愛の心と近代日本の夜明けについて

2025年11月7日 掲載

事務局長 生安 衛

 街には落ち葉が舞い、少しずつ冬めいてきました。今年は残暑が続いたかと思えば、すぐに木々が紅葉し、北の地域では雪の便りもちらほら聞かれ、めまぐるしく気温や景色が変化していると感じています。
 さて、大阪・関西万博が10月13日に閉幕しました。記録的な猛暑が続く中、「国際赤十字・赤新月運動館」の入口には、日々長い列が途切れることがなく続きました。兵庫県支部では、4月から10月までの期間中、パビリオンスタッフとして、当支部職員やボランティアなど約600名(延べ)を派遣しまして、本社や他支部の職員と協力しながら、国内外の多くの方々に対して、赤十字への理解や人道支援、博愛などを発信する運営に尽力いたしました。
 おかげさまで、累計来館者数は31万人を突破し、当初想定していた以上にご来館いただきました。また、メッセージ投稿数は9万を超え、特設サイトの訪問者数は約148万人にのぼるなど、日赤に対する思いや感想を多数いただいたところであります。
 先月、日本赤十字社の創設者である佐野常民の生誕地である佐賀県佐賀市川副町にある「佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館」を訪れる機会がありましたので、掲載させていただきます。
 そもそも日本赤十字社の誕生は、創設者の佐野常民が1867(慶応3)年のパリ万国博覧会等を訪れたことがきっかけになっていると言われています。記念すべき日本での万博開催中に、日本赤十字社の職員として日赤の原点を学ばせていただきました。

(佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館)

 佐野常民の遺徳を顕彰し、博愛精神を学び普及していく施設として、「佐野常民記念館」が2004(平成16)年10月に、生誕地である佐賀市川副町 早津江の地に開館し、2021(令和3)年9月に「佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館」としてリニューアルオープンしています。
 実のところ、この館を訪問する前、日赤創設者の佐野常民と三重津海軍所跡が並列になっている名称に違和感がありましたが、この館を訪れて、佐野常民が三重津海軍所で、国産初の実用蒸気船「凌風丸」建造などに指導力を発揮し、近代日本の発展に寄与されたことを知り、合点がいきました。
 3階建ての建物で、1階は三重津海軍所跡展示室、明治日本の産業革命遺産ガイダンスコーナー等、2階は佐野常民展示室、佐賀藩の近代化事業展示室、赤十字コーナー等、3階は展望テラスで、河川敷に広がる三重津海軍所跡(工事中)等が一望できます。
 佐野常民に関する全長23メートルの年表コーナーや収蔵資料が陳列されているほか、三重津海軍所のドライドック木組遺構の原寸大模型、マルチビジョンを駆使した映像、近代化事業に関する解説パネルなどが展示されています。また、職員の方やボランティアガイドさんから丁寧かつ詳細に案内していただけます。
 また、この施設の道路を挟んで、河川敷に三重津海軍所跡があります。現在は工事中で2027年春ぐらいに開所される予定なので、散策はできませんでしたが、この歴史館の豊富で貴重な資料と映像で、当時の状況を学ぶことができて、充実した時間を過ごすことができました。
 この歴史館は、近代日本の産業革命の一環として、世界遺産にも登録されており、訪れる人々にその重要性を伝えていると実感いたしました。

<佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館>

https://sano-mietsu-historymuseum.city.saga.lg.jp/

(佐野常民の素顔を知る)

 佐野常民の素顔として、全長23メートルの年表、裏話のデジタルサイネージ、映像シアターなどによって、生い立ちや功績などを通じて知ることができます。
 1822(文政5)年に佐賀藩士の家に生まれ、幼少のころ、医者になる道を歩まれていたことを初めて知りました。この幼少期の思いが日赤の医療事業・看護師養成・献血事業などの原点になっているのではないかと感じました。
 また、サイネージなどで、頭脳明晰で努力家で、その勉強ぶりや粘り強い行動も窺われました。「断られてもけなされても少しも頓着なく、やるところまでやる」「ついには反対者も屈服する」などと言われています。当時、将来的な構想をもって、たゆまぬ努力をされていることに、周りの人たちも共感せずにはいられなかったと思います。
 さらに、若くして佐賀藩の精煉方(理化学研究施設)で活躍し、明治政府においては大蔵卿や元老院議長を歴任するなど、多岐にわたる仕事をまかされています。
 様々な資料から、幕末から明治時代にかけて政治、産業、科学、芸術など多岐にわたって、各分野の指導者や専門家として活躍していたことを感じることができます。赤十字は、それらの活躍のほんの一部であるように見えてくるほどの多方面での活躍ぶりに驚愕しました。
 しかしながら、派遣されたパリ万国博覧会やウィーン万博で、ジュネーブ条約が紹介されていて、「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間である」と敵味方の区別なく救う理念に衝撃を受け、「国際赤十字の守るべき命と尊厳」に出会ってからは、日本赤十字社の前身である博愛社の創設と発展に尽力し、日本における赤十字運動の充実・拡大に生涯を捧げられました。その先見性と博愛の心に胸が打たれました。
 当時の日本では理解されなかった、革新的な人命救助の仕組みである赤十字を実現するには、「一人では何もできない」と考え、協力者を求めて行動し続けた姿が見えました。
 危険をかえりみず、自ら戦地に足を運び、私財を投じ、人材の確保や物資調達に奔走し、なりふりかまわず、ときには泣きながら協力者を求めました。命が失われ、苦痛にあえぐ人々の惨状を見て見ぬふりができない、一人の人間としての信念が浮かび上がってきます。
 この思いは、のちに常民が語った「文明開化といえば人はみな法律や精密な機械ができることをいうが、赤十字のような活動が盛んになることこそが文明開化の証である」(1882(明治15)年 博愛社社員総会演説)の言葉に表れています。
 正直に言うと、佐野常民の写真から、冷静沈着な紳士とお見受けしていましたが、地元では、「泣きの常民」と言われていました。博愛社設立の願書許可の際に涙を流すなど、情が深く、すぐに涙を流すことで有名であったと聞きます。熱い想いが涙としてこみあげてくる情熱の人であったのではないかと感じざるを得ません。

 歴史館から10分ほど歩いたところに、佐野常民生誕地があり、立派な記念碑が建立されています。その横に、写真とともに「博愛」という文字が刻まれた碑が建てられていました。この地に立つことで、博愛を重んじる真の近代化への一歩を目指した姿を想起いたしました。

(世界遺産である三重津海軍所跡)

 2015(平成27)年に、国内では19番目に、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」と称されて、日本近代化の原動力となった産業遺産として、8つのエリア、全23遺産が登録されました。この構成資産の一つが「三重津海軍所跡」となります。佐賀県で唯一、世界遺産に登録されています。

<文化遺産オンライン>

https://bunka.nii.ac.jp/special_content/hlinkF

 創立は1858(安政5)年で、幕末に佐賀藩が独自に海軍技術を学ぶために設立した洋式海軍の拠点で、主に船の修理及び造船などを行った施設でした。佐野常民が指揮をとった、日本初となる蒸気船「疾風丸」もここで造船されました。その後、蒸気船の建造や海軍技術の教育が行われた施設となり、800名を超える卒業生を送り出しましたが、1933(昭和5)年に閉校し、役目を終えました。
 本歴史館では、訓練に使用された洋式艦隊「電流丸」や造船、修理をする「ドック」、稽古場地区などをリアルに、間近に感じることができます。その場にいるような臨場感あふれる光景は、まるでタイムスリップをしたような気分になりました。
 ボランティアガイドさんによりますと、「明治時代に産業革命をアジアで初めて実現した日本。その歴史を証明する三重津海軍所跡は貴重な遺産であり、歴史的な価値だけでなく、名所や観光地として、多くの方々に親しまれています。幕末の海軍の歴史や技術の進展を深く理解することができますので、訪れてほしい」と語っておられます。

 今年は世界遺産登録10周年を記念して、特別企画展が開催されています。「日本の今は、佐賀の『知』から始まった。『佐賀藩と鉄』」が開催されています。期間は10月31日(金)から12月14日(日)までとなっています。
 「佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館」で、佐野常民の業績や熱い思い、三重津海軍所が導いた近代化の歴史に触れてみてはいかがでしょうか。日赤関係者や興味のある方々には、是非訪れていただきたい施設だと感じました。
 今も、佐野常民の「敵味方を問わず助け合う、ゆるぎない博愛の精神」は、日本赤十字社の大切な理念であり、日赤職員の行動指針であると思っています。これを将来に向けてつなげていくことが、今を生きる我々の使命だとも感じております。